片付けのできる人々は幸いである――あるいは片付けの才能が欠如した私の脳内晒し上げ大会
「イエスはこの惨状を見て、物の山を越えられた。何とか椅子に腰を下ろされ、そこで、イエスは口を開き、教えられた。
『片付けのできる人々は、幸いである。綺麗な部屋はその人たちのものである。
断舎離する人々は、幸いである。その人たちは床に落ちたものを踏んで怪我をせずに済む』」
~カタヅケタイによる福音書より~
朝っぱらから何書いてるのかよくわからなくなってきました。
多分昨日、急に必要になった服を探し回って全然見つからなくて、挙句何度か探したところから出てきてぐったりしたからだと思います。
洗濯籠を必死こいてひっくり返して探したの3回位やってさらに4回目とかで見つけましたからね。
タンスにしまうという作業までどうしてもたどり着かないので、着用済みの服と洗濯済みの服を入れる籠を別に用意してぶちこめばいいだけ、までやってみたんですが全然機能しませんね。どっちにしろ昨日まぜこぜになっちゃったし。
ちなみにここまで書いて疑問に思った方がいるかもしれません。
「なんでタンスに入れないの?」
「入れないにしてもなんでなくなるの?」
「探したはずの場所にあるって、それちゃんと見てないだけじゃない?」
「だらしないだけなんじゃないの?」
そう思うことは仕方ないことだと思います。
私も近年までそう思っていましたから。
でもですね。
皆さん、「片付けむっちゃきつい」って思ったことありますか?
隣で人が掃除してるだけでも「やめてぇぇぇぇ」って思ったことはどうでしょう?
片付けをすることで、どこに何があるのかわからない恐怖は味わっておりましょうか?
(ちなみに全然関係ないけど今結構頑張って全部語尾の雰囲気変えてみました)
今日はこの記事をご覧頂いた皆さんを、知られざる片付けられない人間の世界へとご案内したいと思います。
前置きだけで750字あるので本題だけ読みたい人はここクリックしたら飛ばせます。
はい長い前置きでした。
前置きで満足しそうなんですが、それだとうっかりネタにした新約聖書にも怒られそうなので、今から考察しながら書こうと思います。
ポイント1:使い終わった物への注意力がない
例えばちょっと洋服のタグを切るのにハサミを使うとします。
使うときには必要だから探して手に取ります。
タグを切ります。
ハサミとタグはもう用済みなので忘れます。
服を着ます。
いや元の場所に戻せって思うかもしれません。タグは捨てろって思うかもしれません。
無理無理、だって頭の中から存在消えてるもん。
覚えていた上で「めんどいなー」って思って戻さないことも稀にありますが、超レアケースです。まぁどっちにしろ片付けないけどそこはそれです。
ちなみにこれがシャツのタグだったとして、ズボン履くときにはどこにハサミを置いたか忘れてまた探したりします。どの服のタグを切らなきゃいけないか全部把握して持って来ればいいのかもしれませんが、着替えるときにシャツとズボンを用意してから着替えることすらできないのに無理です。
当然タグは別々のところにとっちらかって置かれます。
この「忘れる」というのは、努力でどうにかできるものではないです。
そもそも「忘れないようにしよう」という意識すらも忘れます。
ADHDを筆頭とした発達障害の特性として挙げられるものの一つに、ワーキングメモリの弱さがあります。ワーキングメモリとは「短期記憶」や「情報の取捨選択」を行う、要するに脳味噌の片付けをちゃんとやる能力です。
そこが弱いということは、「今やるべきことを判断して覚えておく」という能力がとても低いことを表します。「タグ切った!服着よう!」と思ったら、「服着よう!」しか覚えてられなかったりしますし、下手すると「あっやばいトイレ行きたい」と思ったら、そこでまた情報の混線が起きて服さえ置いたままトイレ行ったりします。トイレから戻ってきた時に服のことを思い出せばいい方です。ハサミとタグはまず頭にありません。
私の感覚で自分のワーキングメモリを例えて言うならば、合計で100文字くらいしか受信できなくて、それ以前のメールは勝手に消えるメール受信ボックス、あたりが近いと思います。
情報が入ってくるたびに古い情報は消えますし、下手すると受信した瞬間に他のことは全部飛んでいきます。画像(視覚刺激)や音声(聴覚刺激)は情報のサイズが大きいので受信するのすら危うかったりしますし、迷惑メール(感覚過敏に直撃する刺激)でフリーズすることまであります。超頑張ればメールの保護はできなくもないですが、それ以外に何も考えられないレベルになりますし、気を抜くと飛んでいきます。
そんなギリギリの脳味噌なのにハサミとタグのこと覚えてるのはやっぱり無理です。
一応ワーキングメモリの働きを助けたり、思考をとっちらかりづらくしてくれるお薬はありますが、効き方に個人差もあるし副作用もそこそこあるし、何より高いです。
怠けているのではなく、「メンテ料金(薬代)を払ってようやく定型発達の人に手が届くかもレベルにしかならない」「メンテ料金がすごく高いし効果がないこともあるのでポンコツのまま走らなきゃいけない人も多い」というのは重要ポイントではないかと思います。
ポイント2:「片付けると便利になる」という発想がない
おそらく定型発達の人は、「ちゃんと片付ける物の場所を決めて片付ければ、なくなることもないでしょ?」という思考の人が多いと思います。
私の経験上からいいます。
なくなります。
無駄に大きい文字にしてしまうくらいなくなります。
まず、ポイント1で言ったように、ワーキングメモリが弱いので物をよく置いてきます。
ただし、自分が何をしていたか、どこにいたか、というのは割と覚えているので、その軌跡を辿っているとだいたい見つかります。
これは日数が経っていても同様で、もしかしたらそちらの記憶については(私は)定型発達の人よりいいかもしれません。書類であれば、「昨日見たのはこれで、こっちは確か一昨日見て、ということは2週間前に見たはずの探してる書類はこの辺りにあるはずで……これだ!!」という感じでだいたい発掘できます。
そして、片付けるという行為はこの「法則性を乱すこと」に他ならないのです。
要するに片付けてしまうと、時系列順に並んでいたものがバラバラになってしまうし、片付けるとそれに気を取られるので「ここにこれを置いた」ということを覚えるのが難しくなります。というか「ここに○○を置いたことを覚える」というのを全部一気にやるのは私は苦手です。覚えられる人は覚えられるのかもしれません。
というのも私は地図を読むとか道を覚えるのが苦手で、いいとこ「こっちの道をこう行ったらこう曲がって着ける!」とかそういう覚え方しかできません。頭の中の地図でどの辺にいるとか把握するのは不可能です。
私にとって「自分が行動した記憶から物を探し出す」のは「どうやって歩いたら着けるか覚える」と同じことであり、「整頓して片付けた場所を全部覚える」のは「部屋に地図を作る」のと同義です。しかもさらに「そこに片付けなければならない」という行動が発生するわけで。
苦手っていうか……うん、もう、やだ……。
というわけで片付けても便利にもならないし楽にもならない。むしろ大変なことの方が多いので片付けない!という強い意思が、片付けては物がなくなるの繰り返しによって強化されていきます。どっちにしろ片付けて不便になるのと片付けないで便利なのだったら片付けないの取るじゃないですか……部屋に客を呼べない以外に不便なことないですし。
ポイント3:もはや消えることのない幼少期からの苦手意識
いやほんと……散らかすと怒られるし……片付けても3日くらいで元に戻っちゃうからそれも怒られるし……親の機嫌が悪いと「もう全部捨てちゃうからね!」って言いながらゴミ袋に全部詰め込まれそうになって泣きながら縋り付くことになるし……てか今気づいたけど、私が自分の物に触られると捨てられそうな気がしてすごく嫌な原因、それじゃないですかね。断捨離も割と自分でやることを想像しただけでもイラッとした気持ちになりますが原因それじゃないですかね本当……。
それこそポイント2の時に「部屋に客を呼べない以外に不便がない」って言いましたが、どうせ親が来客嫌いだから友人を呼んで遊ぶこともできないし、片付けられないことによるデメリットは「親に怒られる」しかなかったわけです。あと本来西日が入る部屋だから、夏の夜なんかはドアを開けておかないと物凄く暑いのですが、部屋出てすぐのところに2階のトイレがあって、祖父が私の部屋の前を通って夜中に行くとき覗いて行くので(そしてそれを朝私に言う!!せめて覗くにしても言うな!!)あまりにそれが嫌すぎてずっとドア閉めてました。だから夏にドア開けられないデメリットもないです。元から片付けられないというのに、そりゃ自主的には片付けないわ……。
よく「それぞれ物の置き場所を決めなさい。ちゃんと物の住所を決めるの」とかって片付け方のノウハウ的なもの?を教えてはもらったのですが、まぁ今思えばポイント2にあるように住所を決めるとか一番苦手なやり方だったんですよね!言われたときは気合い入れて引き出しとかにちゃんとしまうのですが、すぐ元の木阿弥になるしそれで「せっかく教えてあげたのに」みたいなこと言われたような気がするし(母よ、もし冤罪だったらごめんなさい)、失敗体験だけが心に降り積もり「あーもう片付け大っ嫌い!!」になるわけです。
ドストエフスキーは自分の懲役経験を元に、「もっとも残酷な刑罰は、徹底的に無益で無意味な労働をさせることだ」と語ったそうです。
いかに重労働であっても、それが何かを完成させる、など目的のある作業であれば耐えられるけれど、無益で無意味な反復作業をさせられていたらその囚人は4,5日で首吊ってたんじゃないかな……という内容だそうなのですが。
下手すると私にとって片付けというのはそういうレベルの作業だったんじゃないかと思います。嫌いな片付けをしてどこに何があるかわからなくなって3日で戻って怒られる。私にとってはこれは本当に無益で無意味だったんですねぇ……。
むしろ結論だけ読みたかったらここ押したら飛べます。
最後に――片付けのできる人々は幸いである
なお片付けができない人間であっても、散らかり放題の部屋とは対象的に学校の掃除には特に問題がなかったりします。手順通りに動けばいいからね。
手順通りに動いていれば怒られないしね……。
ですが、片付けのできない人間というのは下手するとバイト先とか就職先とかで「片付けのできない奴は仕事ができない」とかいわれなき差別を受けることがあります。私は言われました。
実際今なら「仕事はできても人材育成はできない上に従業員さんに『ここから飛び降りて死ね』とか言うパワハラクソ野郎になっちゃうことってあるんですね☆」って言えるかもしれませんが(言えないかもしれない)あの頃は私も今よりだいぶ余裕もなく自罰的だったのでねー。
だから本当、片付けができる人というのはそれだけで幸せなんだと思います。
片付けができるということは、「自分の心地いいやり方」と「社会が望ましいとみなすやり方」が同一だということです。
逆に言うと片付けができないということは、それが相反しているということです。
別に共有スペースとかを散らかし放題にさせてほしい、とかじゃないし、職場とか学校では周りの使いやすさに合わせることも考えるので……自分の部屋でくらい、賽の河原や針の筵じゃない生活をしたいなって思います……。
あと最後になりましたが、私のようなどうしてもどうしても片付けられない、片付けが嫌いなお子さんに、怒らないでかるーく「片付けたらいいことってなんだろう?」とか「片付けをして嬉しいこととか良かったことってある?」って聞いてみてもらいたいと思います。その答えが望むものじゃなくても、絶対怒ったり訂正したりしないで聞いてみてほしいです。
きっと過去の私にそれを聞いたら、「綺麗な部屋になって気持ちいい」なんて答えは出てこなかったと思います。考えても何がいいことなのかわからなかったかもしれないし、「片付けをちゃんとできたらお母さんに怒られない」とかかもしれない。
あなたにとって、片付けは有意義で必要なことだったとしても。
もしかしたらそのお子さんにとっても、片付けというものは「最も残酷な刑罰」かもしれないのです。
私にとってそうだったように、そして今もそうであるように。