三十路になった発達障害児の心に浮かぶよしなしごと

ADHDとASDを脳内に引っさげて今日もブレーキのないまま止まるかぶつかるまでアクセルを全開にするんだ。


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私の「母」への復讐

お久しぶりです。

しれっとブログタイトルを変更した旅硝子です。

最近収入はないけど爆死もしてないのでそっと変えました。あっ課金にならない範囲で爆死はしてますそりゃもうばっちり。

今日もサボった病院には連絡できてないし、ほんと社会性のあるフレンズになれないんですけど「そもそも今日行けない病院にいつ行けるのか私にもわからん、行けるときに連絡しよう」という判断自体は間違ってないと思う。

ちなみに今「その判断を病院にも言っておけよ」と思いました。病院の皆さんごめんなさい!

 

ちなみに今日は生育歴の話なので、多少重くなるのでよろしくお願いします。

母親に理解された、と思ったことがあまりない、というのは後になって気がついた。

私の母は本当に愛情を持って私を育ててくれたと思う。障害児教育に関わる職業についていたから、発達障害自体にも理解はあって、今通院している病院も元はといえば母が教えてくれたものだ。

けれど、発達障害のことを理解しているということと、「私の」発達障害を理解してくれていること、というのは全く別なのだ。

最初は「ASDの傾向がある」という診断を受けていたけれど、ふと精神科クリニックの先生が「ADHDのチェック受けてみる?」と尋ねてくれて、その場で頷いてチェックリストを2枚持って帰った。その時はもう実家を出ていたから、同棲していた恋人に家族用のリストを渡してチェックしてもらった。もう1枚はセルフチェックだ。

ちなみにその恋人は今の夫である。めちゃくちゃ喧嘩するが夫以外とはまともに喧嘩できないし基本的に喧嘩したら仲直りできないことの方が多い。

「喧嘩したら(友情を)殺しちゃう」とある友人に話したら爆笑してくれた。わかってくれて私は嬉しい。

 

置いといて。

次の受診のときに、チェックリストを2枚とも先生に渡したら「ばっちりADHDだね」と笑われた。恋人がチェックした方が高い数値が出たらしくて私も噴いた。

だが母親に会ったときにその話をしたら「ADHDじゃないと思うんだけどねぇ」と言われた。

言っちゃ何だが、幼少期から片鱗どころかもろだしレベルだったと思う。部屋は片付けられなかったし、日課の食器洗いとか取り掛かるのも遅かったし、歯磨きをしている途中に本を読むと手が止まるので歯磨き中の読書を禁止された。なおそのせいで読書をするために歯磨きをサボったのは秘密だ。学校のおたよりもきっちり出し忘れてよく叱られたし、時間割通りに教科書を揃えるのが面倒だと思ったから高校時代は資料集とか辞書は下駄箱に入れておいて(鍵のつくロッカータイプだったのでこっそり置けた)、全教科の教科書を入れたままにしておいた。

これで絶対教科書とかの忘れ物はしない。なにせ出さないから。一応テスト期間くらいはちゃんとやった、というかそこで詰め込んだ。

当然宿題はよく忘れたがそこはそれ、朝のうちに解くとかこっそり別の教科の間に内職するとかいろいろ手はあったのだ。教卓前の席は席替えするときに「目が悪いし耳も聞き取りづらいので」とか言ってくじ引きなしで奪っていっても誰も文句を言わないし、教諭からは机の上が見えない特等席だった。

基本的に学ぶことというか、知識を得ることは好きだったし読書量も多かったしで、学校の勉強は乗り切ったし、勉強ができて先生を困らせなければ学校生活なんとかなる発達障害の人間は多いと思う。とはいえその頃にはもう、クラスメイトとの関係とか(むしろ関係性が作れてなかった)で悩んでたのでばっちり特性は出てたと思う。

まぁ、そんな風に心当たりだらけだったのに、一応18年間同居していた親に気付かれていなかったってことが、どうしようもなく悲しかった。

 

やや過保護で過干渉だと思うくらい、母はいろんなことをしてくれたし、家を出てからもいろいろと送ってくれたりした。

とはいえそれが、私の欲しかったサポートとは違う、ということも多かった。

大学受験は地元からの電車の本数が少ないので、大学のある市に前日泊することになったが、母が「お母さんもついていって一緒に泊まる」と言って、嫌だ絶対嫌だ大学生になるってのにそんなことできるか、って反抗期すらなかった私にしてはかなり嫌がったのだが、結局勝手に2人分ホテルを取られた。

無論別の部屋とかではない。

「あなたは方向音痴だから心配」とか言われたけど、流石に前日からいるんだから道順くらいそのときに確認していくし、余裕だって持って出る……と思う。遅刻しなければ早すぎる、というのは私のあるあるパターンだが、逆に言えば早くつきすぎることを恐れなければ時間以前には到着できるのだ。困ったら人に聞けばいいし。政令指定都市に朝から人がいないなんてない。少なくともここ(今も住んでる)はない。

普段から部屋で一人で寝ていたので、前日に母親が隣で寝てるってことがそもそも結構なストレスである。さらに言えば開場待ちのときも一緒に並ばれた。正直さっさと帰ってほしかった。

ちなみに6歳下の妹は飛行機の距離の専門学校を受験したが、そのときには母はついて行かなかった。年月が経っていたとはいってもさすがにダブルスタンダードが過ぎる。

 

一方で、高校生の頃にはもう精神的な不調にかなり悩まされていて、冬を中心に抑うつ状態にはなっていたと思う。学校も冬は五月雨登校になりがちだった。冬の五月雨登校ってあまりに季節感がないとは思ったが、まぁ、うん。

精神科を受診したいとは言ったけど、「それって発達障害で?」と聞かれて「そうじゃなくて精神的な不調で」みたいなことを答えたら「地元でいいとこないからねぇ」と言われた。

精神科、というのが嫌だったのだろうか。でも発達障害の診断も精神科で受けるわけで、本当によくわからない。

その時の私は少なくとも、発達障害とはまた別に、精神的な医療支援が欲しいと……そこまで言えるかはともかく、この辛いのって診断名がつかないのかきつい、と思ってたのだ。

今になって思えば、とりあえず「うん」と言っておけば発達障害を専門とする今のかかりつけに連れてきてもらえただろうし、そこでうつ状態のチェックリストもやらせてもらえただろう。でもその頃の私にそういう知識はまだなかった。

そして学校は休みがちで、1年生の頃は母も無理せず休んでいい、と言っていたから、結構安心して休んではいた。出席日数はそこそこ計算していたし、基本的に調子が悪いのは3学期だけだったからあまり影響はなかった。

 

だが、2年生のときに詳細は覚えていないが「ちょっと休みすぎでしょ」みたいなことを言われて、なんだか心が変に折れた感じがした。

それならインフルエンザで学校に行けなくなるまで体調が悪かろうが休むもんか!と必死に学校に通って、ついでに不摂生もしてきっちりインフルエンザで出席停止になった。あのときガッツポーズした自分は、やっぱり結構追い込まれていたのかもしれない。

安全圏にいてもいいと思っていたら蹴り出されたような、そんな気持ちだった。

確かにインフルエンザになるまで休まなかった。でもそれは「やればできる」という話ではなくて、「無理をしたからできてしまった」に過ぎなかったのだと思う。

発達障害の人間に、「やればできる」ことは案外多かったりする。

問題はそれをやるためのコスパがものすごく悪いのだ。定型発達の人なら無意識でやっているようなことが、人によっては「できるけどめちゃくちゃ疲れるししんどいしストレス溜まる」というようなことだったりする。

実際「いっそ死にたい死にたい線路に飛び込みたい、でもできればインフルエンザが悪化して死ぬのが一番因果応報っぽい」とかひどいことを考えていた。

実際、希死念慮があったときはきっちりストレス源に対するダメージを与える自殺方法を考えることは多かった。大学時代のバイトのストレスで自殺しそうになったときも(例の恋人に止められた)、やろうとした方法は栄養ドリンクに煙草の葉を混ぜてバイト先の玄関で飲む、だった。

ちなみに煙草の葉だった理由はおそらく死ぬのは怖かったからなんだと思う。死ぬのは失敗しても良かったけど「自殺した、もしくはしようとした」というダメージはバイト先に与えたかった。

つまりあのとき「インフルエンザが悪化して死にたい」というのは、母へのダメージの最大化を既に考えていたのだと思う。

自爆攻撃かよって感じだし実際多分その通りだ。

もしかすると、希死念慮が自殺願望と言えるくらいひどかった頃は、ある程度、母への復讐めいたものはあったのかもしれないと思う。きっと私が死ぬことで、母へのダメージは計り知れないはずだと思った。

実際は妹がすごく不安定でいろいろやらかしたときにぼそっと私に「お母さん、子育てに失敗したかも」と言われたみたいに、母が無意識に精神的凶器をぶん投げてくることの方が多かったと思う。あなたの子育てが失敗だったら私は何なの?とあのときは思ったが、実際娘が3人とも精神的にかなり追い込まれていたので失敗だったんじゃないのか、と今なら思う。

今は3人ともなんとか自分で生きる道を見つけて自立してるわけで、失敗した子育てを成果物が自己修復してくれたことをもうちょっと幸福だと思ってくれたら、と思わないでもない。

 

2年前に結婚した辺りから精神的には徐々に、主に自罰的思考が落ち着いていった。そこから自覚している多動は結構多くなったかもしれない。自罰に使っていたエネルギーが多動に噴出したのかもしれない。

そして、「過去の嫌だったこと」を思い出して、どうして嫌だったのか考えるということが結構多くなった。

入試の話もその一つだと思うし、掃除ができないこともだったと思う。それを夫によく話した。聞いてくれた夫には感謝しているし、こそこそ部屋で貯めていた貯金を母に「通帳に入れて欲しい」と渡したら「こっちが渡したお小遣いなのに貯めてたの?それをあなたの通帳に入れるの?」みたいなことを言われて(それもよくわからないが)結構本気で腹がたった、という話をしたら、私より夫がキレた。

無論、夫がうちの親にそういう話をしたことはない。いや実際多分頼めばしてくれるのだが、それは結構嫌だった。

夫からは「そういう嫌だな、と過去に思っていたことは話してもいいんじゃない?」と言われたこともあるが、それも嫌だった。

今更波風立ててどうするのか、とか、母親に今更後悔されたくない、と思っていたのもある。

 

けれど一番大きい理由は、きっと私がそうしても救われるわけじゃないからだろうな、とふと今日になって思い至った。

気持ちをわかってほしかったのは「あのときの自分」であって、今の自分じゃない。

救われたかったのは「あのときの自分」だ。

今になってあのとき辛かった、ということで、落ち着くとか楽になるならそうしていただろうけど、きっと私はそれによって楽にはならないと思う。

ある意味復讐にはなるかもしれないが、悲しい顔とかされたら目の前で見ている私が一番しんどいし、なんで言ってくれなかったの、とか言われたら腹が立つのも私だし、つまり復讐としてコスパが悪い。

「私が自爆することで復讐になる」のと、「私が復讐することで返り討ちに遭う」は最終的な結果は同じかもしれないが全然違うのだ。復讐は目的であって手段じゃないのだ。

 

少し話が飛ぶが、これは最近、ここ1年くらいのことだ。

インターネット上で知り合った友人がいて、郵便でプレゼントの贈り合いとかもしてる(しかも主に向こうが贈ってくれるばかりで本当にありがたすぎる)のだけど、その友人の娘さんに関する話を聞いているうちに、「あ、この子は、私だ」と思ったのだ。

娘さんは上のお子さんで、私が小学校の頃全然できなかった「おたよりを出す」とか「片付けをする」とかがやっぱりすごく苦手で、母親である友人もそれに悩んでいたみたいだし、結構きつく叱ったりすることもあったようだ。

うちの母はとにかく叱り方がものっすごく下手だったと思うが、多分友人は母よりは上手いと思う。実際に見たわけではないから正確にはわからないが。

それでも、自分で叱られてもすっごくどうしようもなかったことを、娘さんが叱られていると聞いたとき、なんか辛かった。

だから「私も苦手だったよ!」とか「こういう理由があるのかもよ!」とかたくさん言ったし、発達障害の話もしたことがあったと思う。

ああ、小さい頃の私を見てるみたいだ、って思ったのは、母親が怖かったとかそういうことについてではない。きっと、叱られても繰り返してまた叱られる、でも自分でコントロールできない、というのが、昔はわからなかったけど今の私には、どうしてそうなるのかも含めて理解できてしまったからなんだと思う。

その子を「昔の私」にしたくなかったし、友人を「私の母」にしたくもなかった。

母とは年々こちらから疎遠になっていって、実は1年半くらい顔を合わせていない気がする。娘さんを大事に思っている友人の気持ちが伝わるから、娘さんからそういう風に疎遠にされるルートを通ってほしくなかったし、何より娘さんがどうしようもなく自分の特性と外圧の板挟みになるのは私が辛くて仕方なかった。

 

今日、友人から娘さんが「通院してインチュニブを服用することになって、あと予定管理にホワイトボードとキッチンタイマーを使って工夫してみることにした」と聞いた。

お医者さんもしっかり親子どちらの話を聞いてくれる人らしくて、そして何よりその予定管理の方法を工夫してみてくれたことが嬉しくて、すごく嬉しくてたまらなかった。

今書いていて泣きそうだ。嬉し涙だこれは。

 

上手く行くかはまだわからないって言ってたけど、ホワイトボードに朝の予定を書いておいて、学校に行ったら帰宅後の予定に書き換える、と言ってた。あと外出前とかに中途半端に時間が空いたらキッチンタイマーを使って、タイマーが鳴ったら外に出る準備をして鞄を背負う、って言ってた。

すごくいいと思うし、まだ小学生だ。上手く行かなかったらまた別の方法でチャレンジしてみればいいし、今から習慣としてやってみることで、自立して自己管理していくにも役立つんじゃないかと思う。

そしてきっとこれって、私が「そうしてほしかった」ことでもあった。叱られてもどうにもならないことに、「こうしてみたらいいんじゃないかな」ってヒントをくれて、それを手伝ってくれる、っていうのは、きっと娘さんと同じ小学生だった頃の私が、今思えば受けたかった、受ける必要があった支援だったんだと思う。

 

私は、できれば発達障害の子の悩み相談に乗ったりするような仕事がしたいと思っている。何だったら仕事のついででも構わないのだけど、正直ボランティアでやってる金銭的な余裕がないので、それでお金稼ぐかお金稼げることと同時進行でやりたい。

無料悩み相談つき駄菓子屋(駄菓子はもち有料)のおばちゃんは、結構私としては推していきたい将来像だったりする。ぶっちゃけ1ヶ月に3万円くらいしか純利が出ないとかさるサイトに書いてあったが、それだけ維持費なり税金なり抜いて純利で出るならもう十分である。何なら1万くらいでも今よりいい……のだ。

でも別に親には興味ないと言うか、親のケアまできっと私はできないと思う。私は悩んでいる子供の話にアドバイスとか、ひたすら嫌だと思うことを聞いてあげたりとかはできるのだけど、障害を認めたくない親のケアとかは、なんか昔やろうとしたけどいろいろあって(主にこっちが時間守れなかったりとかだから私も悪いのだが)家庭教師の契約を一方的に切られたりしたので、ちょっとトラウマ気味なのもあってやりたくない。

てか親しい友人だし私の発達障害のこともちゃんと(私のめんどい自己認識まで含めて)受け止めて受け入れてくれたからこそ、その友人のことも心配しているのであって、そうじゃなきゃ子供が救われれば親なんてどうでもいいやい、というのも本音だ。

 

もしかしたら、それが私の母親への復讐なのかもしれない。

私みたいな思いをする子が少しでも減ってほしい、というのはある意味で、私の育ってきた環境の否定なのだ。そう思えば思うほど、私は母の子育てを否定することにもなるのだと思う。

でも、私は辛かったし、発達障害児達に同じ辛さを感じてほしくないのだ。

母は「育てやすかったよ」とか言うけど、私は結構育ちづらかったよ!って今になって叫びたいような気持ち。この年齢になってようやく理由がわかるようになった、あの頃のなんかしんどかった私。あんな思いをする子はもう未来永劫いなくていいんだ。どんな子だって、自分はこういうやつだぞ!って胸を張れて、自分に必要な支援を受けることができる、そんな世界になってほしい。

目的語がめちゃくちゃ大きいし、私1人でどれだけ叫んでも世界がそうなるわけじゃない。でも、すべての子供は幸せになるべきで、その幸せのかたちは「外から見て幸せそうで美しいもの」じゃなくて「その子が一番幸せになるもの」であるべきなんだ。どれだけ理想論だとしても、まず口にしなきゃ理想「論」にすらならないんだ。そして子供自身がそれに気がついて自分で変えようとすることなんて不可能だって私は知ってる。どれだけ外から見れば何不自由なく、恵まれた環境に見えたとしても、私は相対的には知らんが絶対的には苦しかったんだ。

そういう意味で私は今でも「発達障害者」ではなく、「発達障害児」でありたいのかもしれないし、少なくともその目線でいたいのだと思う。

大人の事情っていうものが子供に押し付けられるべきじゃないし、もし「こうしないといけない」っていうことがあるなら、それをちゃんと本人に納得してもらわないといけない。ちなみに私は今30歳だけど、私の方から大人の事情というか、社会的な事情、とか一般常識、とか不文律、みたいなものを忖度してあげる理由はないので、「私が必要ないと思っているけど他の人からしたら当然すべきこと」は私にとってめっちゃくちゃやりたくないことではあるし。それを受け入れることが大人になるってことなら、私自身は死ぬまで大人になりたくない。なってはいけないとすら思う。察してもらって当たり前みたいな顔してんじゃねーぞ!って誰かが言わなきゃ誰も言えないもんな。

 

そしてきっと、子供達が辛さより楽しさを、自分が嫌い、より自分が好き、って気持ちを感じてくれればくれるほど、「手助けしてほしかったあの頃の自分」がちょっぴり、救われるような気がなんかしている。

 

※ちなみに「親」ではなく「母」なのは、父親には特に私からの文句はないからです。

 いや実際ほぼ単身赴任とかも含めて母のワンオペ家事育児だったし、そこは母も大変だったとわかってはいるんだけど、これはあくまで子供だった私の話だし私がきつかったって話ですのでね!