三十路になった発達障害児の心に浮かぶよしなしごと

ADHDとASDを脳内に引っさげて今日もブレーキのないまま止まるかぶつかるまでアクセルを全開にするんだ。


スポンサー広告

『普通』から逸脱する手段としての発達障害

ちょうど今、夫から「日本人って、自分ができるから他の人も出来るって考えがちだとおもう」というメッセージが入ってきたので、それについて話しているうちにふと至った結論でした。

ちなみに夫は仕事中でも割とメッセージを飛ばしてきます。ぐぬぬマルチタスクタイプめ。デスクワーク要員は多くない職場なので別に人数に埋もれてるわけでもなくちゃんと仕事してるんだと思います。マルチタスクスキル持ちめ!にゃろー!!

 

というわけでなんとなくしていた会話内容が下記となります。

夫「子供の頃からまずは自分がされたら嫌なことをやらない、という躾方法と、謙虚さ、同一性が求められがちだから、自分が出来ることが世間で出来ることの基準になりやすい」

私「自分が嫌なことは人にやらない、は1つの正しさではあるけど、同時に『自分が好きなことは他人が嫌なことかもしれない』という視点が抜けるよね」
夫「なのよねー」
夫「あとは大人になるとそれプラス、嫌なことでもやりきったら、自分のように成長する、と上司の立場は思うのだろうね」
私「あーなるほど」
私「状況が違うかどうかを考慮しないよね」
夫「あと、根本的な自分と部下の違い」
私「てかあれだ、それこそ「自分と他人は違う」っていうことが日本の価値観からはすぽっと抜けがちだよね」
夫「なんだよねー、自分も含めて」
夫「難しい」

私「そしてふと思ったけど『発達障害』は私にとってはその『普通』『一般』から抜け出す手段の1つだったからこそ、診断ついて嬉しかったのかも」

 

 

という感じの会話でした。

結局の所、私の特性というのは学校生活ではともかく、社会に出た時に『社会人としてできて当然』と言われるスキルがほぼ欠落している状況にあります。

時間を守れなかったり、周囲の環境について把握できなかったり、あと自分の使っているExcelで導入された関数を使っていた時に「それチェックする人のバージョンだと見れないから違う関数使って」って言われてイラッとしたり。

いやでもよく考えたらせめてデータ管理部署だけでもExcelのバージョンは、最新とは言わないからむしろせめて統一しろよって今でも思います。

他にも合理的じゃない指示に従うのとかめっちゃくちゃイラッとします。なんで別シートの数字を視認で指差し確認しなきゃならんのだ!セル指定とイコールだけで比較できるじゃないか!!

あとなんかよくわかんないけどちょいちょい女性に嫌われたりもしますね……多分清潔感とかいろいろ足りないのかもしれないですが、『会社に行ってるだけで偉い』状態の時って顔すら洗う時間を確保できなかったりするし(目周りだけは必死に拭く)、仕事に集中するとコーヒーやお菓子は基本服にいつの間にか零れてるし、机が汚いとか言われても、そもそも業務上使わない部分は目に入ってないし……。

 

まぁつまりは『社会人としてはいろいろ足りない』という部分を、経験や慣れで補充できない、それが私の特性ではあります。

仕事内容だけなら余裕があっても主に『外面』部分を維持するのに大概オーバーワークだし、同じオーバーするなら優先すべきは仕事内容だろ?って思っちゃいますし。

ただ結局は「大学まで出たんだしできるだろ」「社会人として当然」と本当に言われやすい部分ではあるんですよね。大学と会社は所属してやっていくための技能が全然別なので、よほど専攻分野が合ってないと基本は高卒と同じだけのトレーニングが必要だし、専攻が合っていようと会社のルールに合わせるとかその辺りは全く別です。大学はエスパー養成施設ではないしむしろ逆です。基本は言わなきゃわからんの世界です。いろんな大学行ったわけじゃないから知らないけどうちはそうでした。

 

そして、私の場合はその『できない』の理由に名前がついたものが『発達障害』だったと言えます。

単なる『個性』や『変わった人』である場合に是正を求められる部分が『障害』であることで、克服の難しさが伝わるし、「他の人と違う考え方をしていてもそれは発達障害による定型発達者とは異なる脳の働きによるもの」という言い方で『理解』はされなくても『納得』しやすくすることはできます。

だからこそ私は『発達障害は個性である』と言われることを警戒しています。『個性を伸ばす』ではなく『個性ならば抑えられる』という方向に、少なくとも日本社会は向かいがちな傾向があるからこそです。

というか日本の『個性』っていう言葉はどうしても『長所』に繋がりやすくなっています。確かに私の文章を書くスキルや、発想力の突拍子もなさ、あとある程度日課になったら継続できる能力(主にソシャゲのログインに発揮されております)、いざとなったら超絶過集中パワーで締め切り1分前とかに納品する能力などは長所ではありますが、それはやる気がない時は全く出ない、やる気にならないことは全くできない、いくらやる気でも時間は守れない、書いたら飽きるから推敲できない、一度思い込んだらイベントやり込むけど欲しかった報酬にほんのちょっと足りない、基本的に眠りが浅いので徐々にパフォーマンスが低下した上に突如として倒れて丸1日以上寝込む、などの数々の苦手分野と代償、つまりは短所と共に存在しています。短所もまとめて『個性』って言ってくれるなら構わないんですが、『発達障害は個性』という言い方はどうも「長所は出した上で短所は克服してね☆」って感じがしてどうにも好きになれないです。

 

普通ではない、ということは、普通より上ということを必ずしも指してはいません。普通より上だったり、下だったり、むしろ普通と同じ高さにあるけどずれてたり、いろんな『普通じゃない』があると思います。

むしろ『普通』というものはおそらく、1人1人が異なるものとして定義した上で、けれど全員に共通した『普通』というものがある、という不思議な認識によってできていると思います。

つまりみんな、自分が『普通』だと思ってることが世界の『普通』だと思っている。

そしてそれが『普通』だと思っているから、『普通』同士に差異があることを考えようとしないし、それを考えるとおそらくは『普通』というものが前提から崩れるのでしないと思います。

 

その上で、私はおそらく大多数の人が『普通』だと思っているものから逸脱した部分を数多く持っていると思いますし、『普通』と認識されようとして振る舞うと非常な苦労もするし苦痛も感じます。

そこに『私のまま』で切り込める手段が、私にとっては『発達障害の診断』だった。

だからこそ私は自分が発達障害であることに抵抗はなく、むしろ誇りを持って言えるのです。この発達障害という診断名は他人にはレッテルだと思われようと、私にとっては勲章であり、そしてどちらであっても「この人間は普通ではないのだ」という識別のために支障はありません。

 

そして私は全く同じ理由で「発達障害の診断には慎重になるべき」という論調には反対です。

無論、精神疾患の併発がないか、もしくは疾患によって一時的に認知の歪みが起きている可能性などは考慮すべきであり、適切な治療を行うべきです。

しかし実際に困っているのに「普通ですよ」と言われた時、それは少なくとも私が知っている限りの社会においては「普通なんだから自力で頑張れ」と切り捨てられたのと同じだと思います。それは何の解決にもならないどころか、その人が実際に定型発達の範囲に入ると考えられるものであってさえも『二次障害』的なものを引き起こす可能性がかなり高いはずです。

 

私の主治医は「うん、まぁ完全にそう、と言える範囲ではないけど、一応診断出しとく?」と確認してくれました。私はそれに頷いたことでまずは『アスペルガー障害』(当時)としての診断を受けました。

なおその後ADHDの検査をやったら「いやもうばっちりだねぇ」と先生が笑うくらいの結果が出たので、晴れて立派な(?)発達障害になったわけですけど!

 

まぁある意味では『発達障害』でなくてもいいんです。

この人はみなさんが思っている普通と同じようには出来ませんよ、サポートしてあげてください、という『符号』さえあれば、それで構わないと思うんです。

もちろん今の社会にその『サポートが必要な人』を拒む傾向はありますが、それでも『普通』のレッテルを貼って自力救済のみで頑張らせるよりは『サポートが必要である』と表現できるのがその人のためであり、職場や友人関係などでも相互に利益があると思います。

その人が自分で「サポートがいらないよー」ってなったら、『サポートが必要な人』の肩書きを自分で引っ剥がせばいいだけの話なんですし。

 

ま、それでも私は『発達障害』という言葉で自分を表現するのが結構好きなので、これからも発達障害でいきたいと思います。愛着もあるし、実際に私の『困っている部分』っていうのは自分でもあーうんこれ障害だわーって思いますし。

ある意味でこれは『普通じゃなくて』『普通になりたくもなかったし』『普通になれなかった』私の最終形態に近いものと言えるのかもしれません。

これから変わるかもしれないけど!

何せ孔子先生ですら40歳のときにようやく『不惑=惑わず』ですからね!

 

それでは!